昭和46年2月21日 朝の御理解
                                入力者 大坪れい

 御理解第29節「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと、梅の花の信心は長う苦労しておるからと。ね、長う苦労するということが、え~いわゆる、修行が長ければ長いだけ、え~力を受けるという意味だと思いますね。長う苦労しておると、やはり修行が長ければ( ? )長いだけ、修行の間に、苦労しておる間に力を受ける。

 私はいつも、この29節を頂く時に、(  ?  )ね、え~合楽の信心は、どちらの方の、まぁ部類になるだろうかと。桜の花の信心、梅の花の信心。ね、昨日も、ある教会の先生がお参りなって話されました。もう、50年からの教会( ? )、え~教会になって50年間の記念祭を仕えなければならない。え~それでいて、え~(?)、いうならば、細々とした教会だとこう言う訳です。ね、

 例えば金光様の看板を掲げておれば、ね、何ともなしに、その家族の者達の御まかないというか、家族がたっていくだけのことは、まぁいうならば、どこの教会でもでけてる。けれども、本当に世のお役に立たせて頂くという程しに、その教会の、教会の内容というか、教会活動といったようなものが、なされていない。ただそこに(  ?  )信者さん方は、その教会の( ? )、生活を維持することのために、え~( ? )信者がおるといったような感じの教会。ね、( ? )様が仰った、(  ?  )ですかね、(?)は、( ? )唱えて歩けばですね、その者の生活は保障するという意味のことを、( ? )ね、仰ったということですが、どうも金光教の信心も、ただ金光様と、今金光様の看板を掲げておれば、本当な教会が、許されておるというだけの教会。

 しかも50年にもなって、まだ( ? )されてあるということは、こりゃ~いよいよ本当に、本当のこと、その~ところ一つ、え~分からなければ、それこそ金光大神にたいして相済まん。金光大神の、いうなら道徳だと。いうような、いう話をさして頂いたことです。ね、長う続いておるということだけが、梅の花じゃないです。ね、私は、苦労しておらなければ梅の花の信心てことにはならない。ね、長年信心さして頂いて、いわゆる辛抱し続けておるという、その辛抱が、いわゆる50年経っても、(?)金光様と言えば、その生活だけは保障されておるといったようなね、信心が50年、100年でも続いたところで、私はそれは、梅の花の信心ではないと思う。ね、

 梅の花は、やはり耐えるとこは耐え、偲ぶところを偲んで、ね、そこから生き生きとした、いゆならば、梅の香りというかね、信心の香りが出るほどしの信心。ね、それに力を入れ、徳を受けて行くという、私は苦労じゃなからなければ、長年ただ続いておるというだけでは、私は梅の花の信心じゃないと思う。ね、それは、どういうようなことが原因になっておるかというと、まぁいうならば、桜の花の散りぎはを、昔から侍の魂のように言われておりますね。その( ? )の潔さ、ね、ぱっと咲いて、ぱっと散ると。まぁここでは、なるほど、えらいこ~華やかな信心をしておった人が、いつの間にか、ぱっと消えて信心がなくなってしまうといったような例がある。そういう例のことも、私は桜の花ということを言うておられるのかも知れんですけども、ここでは、桜の花の信心よりと言うておられます。だから、桜の花の信心はいけないと仰っておられるのではない。よりも、ということなんです。

 ですから、桜の花の信心の私は、その良いところ、ね、桜の花の信心の素晴らしい潔さ、そういう潔さがです、私はその苦労というかね、修行というものの、潔いまでの修行に取り組ませて頂けれるおかげ。そういう修行が、私は長く例えば、続いておってこそ、初めていわゆる、梅の花の信心だというふうに思うんです。ね、寒中に、じ~と辛抱しぬかして頂いて、ね、それこそ、梅の( ? )とした、その香りが辺りに漂う。そすと他の春の花の(咲き列?)のように咲きほころびる、( ? )に気高い、ね、何とも言えない、え~いわゆる(   ?  )花であるわけです。

 信心もやはり、そういう気高いまでの信心。何ともなしに信心の香りというか、徳の香りというか、それが、辺りに漂うほど、その信心。ね、そういう信心が、簡単に頂けようとは思われない。で、やはり、5年が10年、10年は20年ていう、そういう信心積み重ねられ、なければならない。というてただ、何十年続けられておって、まぁ例を申し、50年経っても、大した事のないといったような、え~信心のその内容というのは、ただ続いておるというだけ。こりゃ人も助からん、ね、大した御用もできん、そこにです、例えば潔い、いわば改まりというか、潔いまでの信心修行というか、そういう私は、修行を経てのものであり、おかげを頂かなければいけないと思う。

 昨日は、菊栄会でございます。(   ?   )、出てこらせて頂いて、まぁ御祈念前に、皆さんに話したことでした。そこにずらっと並んでおりましたから、ここへ座って(   ?  )まで下りていって、まぁ話したことです。私は今、( ?先生)から足をもんでもらいながらね、うとうと眠ってしまった、先生がいつ立たれたか気が付かないくらいだった。その間に、ちょっとあの時間にお夢を頂いた。ね、そして、このね、ネギ、(ネギ畑?)をね、お野菜の。それをみんなこう、いわゆる花咲いていくから、( ? )、だからもう、あんただん、菊栄会からいっちょ、あの~(ネギ棒の会?)ちゆうごた風に名前変えたらどうのと、昨日私は申しました。ネギの会でもよかち、ネギの会じゃ(?)、ネギの会のやっぱ、ネギの棒会がよかろうちゆうちから、まぁ( ? )言いながら、みなさんどういう風に思うかて私は(?)。

 文夫先生が、それはもう( ? )ならば、種をとらにゃならん。だからそりゃ~、私共は種にならにゃならんちゆうこと(?)言いますからね、「あんただん、そげな風に、自分の都合よかごたる風にば~かり頂いて、そげなこっちゃなか」と私は。それはなるほど、信心のそれも事実だと思いますがね、ところがもう菊栄会の、ん~あんたどんの信心な~もういうならば、もう( ? )。まぁ合楽の信心の、一番まぁいうならば権を持ったような会であるし、え~まぁんなら、( ? )で、子供達が集まって、俺達未来の菊栄会だと、子供達までがその菊栄会ち良かつのごと思うとる。

 それがもうあんた、( ? )たらどうすんのち私が、もう使いようがない。どういうようなことだと思うかと言うて、話したことでしたけれどね、ね、ネギということはね、え~いうならば、神様へ奉唱する( ? )をネギという。いわゆる神の師のことなんだ。いうならば、あ~あんた方は、もういうならば、もう先生各の人ばっかりの集まりである、大体は。とことがです、その過去に置いて、あんまり打ち込みよるとこりゃ~、金光様の先生どんならにゃんと困るちごたる風な考え方をみんながしてるわけです。ね、それで、信心に( ? )を加えておる内に、ちゃんともうぼうずが出てしもうたと、こういうことです。

 例えばんなら、会長が正喜さんでも、ね、副会長の文夫さんでも、ね、あの時分にもうちっと潔さがあったらね、今頃は、もう本当に教会の一つを持たして頂けるくらいな、おかげを頂いとったかもしれん。人が本当に助かると、自分は勿論だけれども、人も助かっていくおかげを頂いておったかもしれん。潔さがなく、ただ長く続いておる、まぁ辛抱、梅の花のような信心がでけてるようであるけれども、潔さがなかった。ね、これは、正喜さんが、もう20年も前の話しです。大体あんなに体が弱いですから、もう死ぬか生きるかといったような病気をしてました。

 おかげを頂いて、お礼参拝をして参りました時に頂いたのが、“信士”ということを頂いた、信士と言うのは、まぁ仏様の代名詞(?)ね、何々信士という(?)ね、何々(?)とかゆうようなね、おいはいに書ちゃるです、あの信士です。次にまた“紳士”と頂いた。これは、あの人中々あの立派な紳士だという風に申しましょ?ね、そういう意味の紳士。次にはまた“神仕”という、神に仕えると頂いた。3つの「信士、紳士、神仕」を頂いた。もうその時すでにです、神様は道の教師にでも、もう無い命を頂いたのであるから、道の教師にでも志せというほどしの、あんに、そういうほろのかしておられるものがあった。

 文夫さんの場合でも、そうだったですね。椛目時代に修行さして頂いており、いつの間にか誰かが、いわば文夫先生というようになり、あの人が御結界で奉仕さして頂きますと、非常に人が助かりよった。文夫先生のお話を頂いた、おかげ頂いたというて、あのいう時代があったんです。ね、けれどもその、いうなら潔さがなかった。だからこれはまぁ~、それを(  ?  )私が積極性がなかったからということも言えましょう。けれども神様がね、例えばそのしんしとは、もうあの世行きをしなければならない程しのとこを通らして頂いたのであるから、ね、いわゆる神仕をせろと、それがでけんごとあるなら、神仕的信心をせよということであったのが、ば例えていつも( ? )話したことです。

 そのどれが今でけておるか、ね。これはまぁ私の親心といや親心、月次祭の時だけなっと、あの人を御結界に奉仕を必ずさせます。ね、それはやっぱり、神に仕えるという意味で、あの御用頂いておりますけれどね、自分はその気持ちがあるのでないでしょうかね。もうそりゃ~見事なお取次ぎをしますですね、御結界に座ったら正樹さん。だからあれがですね、本当にたくさんな難儀な氏子の取次ぎ助けの御用ということになったら、素晴らしかでしょうけれども、やはり、あれに聞かされ、これにいわば、迷う心というでしょうかね、まぁ中々真面目に商売の方に打ち込んでは、商売が繁盛のおかげを頂いておるけれどもね、その程度で、例えばよし、んならおかげを頂いて、あの大きな信頼がでけたというか、億万長者にでもなったとしてもです、ね、必ずその後にくるものは、空しいものだと。ね、今こそ本当に神仕の信心をしておかなければいけん。ね、

 だから、神仕いということができんなら、本当にあちらは合楽での、いうならば神仕といわれるくらいな信心をさして頂かなきゃいけん。お話には聞くばってん、御月次祭に参らなきゃ、正樹さんに会えないというぐらいのことで、私はおかげを頂けると思うとるじゃろうかと。というような話しをさして頂いて、まぁ( ? )、菊栄会から、ネギ棒仕いちゆうごたる風に、いっちょ名前ば変えんのて私(?)。ね、

 昨日、一昨日でしたか、いや昨日でしたか、久富さんが、久富繁雄さんです。御初穂の整理をなさっとります。今朝方私はお夢を頂いた。それがね、あなたが大きな昔( ? )ちね、大きな(制欲度?)角に(?)に腰かけちゃる。でニコニコやっぱり笑ちから、何かこに手に持ったようにして、腰掛けたところを頂いた。どういうことだと思いますか?ち。実は私も今日、こういうお知らせを頂きましたといって、その(  ?  )です。ね、合楽でね、殺人がった。その(権限?)を受けておるのが、久富繁雄さんと、永瀬さ、総代会の永瀬さんと、それから秋永先生と、それだけだったかね?(?)、久富さん。違う?もうもう一人は誰じゃったかね?【文夫先生】文夫せんせい、の4人。その4人が権限に受けとるわけです。

 そしてもう内心ビクビクしてですね、まぁ( ? )、どげん言うちからその、まぁどこに逃れというか、その( ? )しようかと思いながら、心に浮かんだことです、繁雄さんの心に。ね、したらあの「私は親先生のずっとお茶の御用をさしてもらいっよったけんで、私はそげなんとはいっちょん知りません」と言おうと思いよったで目が覚めたというのである。ね、どんなにそこに、んならその~殺人罪という、その誰かがそこに殺されとるといったようなことがあっても、自分が殺していないんだ、ね、だからいわゆる、堂々としたという、今日私が言う、潔さがなかった。自分がそれをして言い逃れようが、なら他の人達はどげんして言い逃れらっしゃるだろうか。それよりか、4人が一丸になってです、ね、自分たちは殺してないなら殺してないということを、一緒に助かれれる言い方はなかったもんだろうか。

 何かどうも久富さん、私が今朝から頂いたそれと、関連があるようです。(  ?  )どういうこっちゃろうか。いや、御飯がでけるところの、(?)ままになるところの、いやそげなこっちゃないて。あの(?)に腰掛けとるちゆうことはね、そげなことしよっと(こうじんさん?)が腹かかっしゃるという意味ですよ。ね、釜戸の神様のことを、こうじんさんという、こうじんさんとは、またのびると荒神様ということになる。ただ、ただなるほど、素直にて雲の上までも登る道があるという素直さということは、内容に非常に難しいものがあるんです。素直ということになると。だからこの説明は、またあの別といたしましてですね、ただ久富さん方の御信心を、いうなら素直の手本のように言うておるけれどもね、それだけではいけんものがあるんだ、いわゆる、今日の御理解からいうと、潔さが足りんのだ。

 桜の花よりとこういうておる、桜の花はいかんようだけれども、桜の花的な潔さが無い。ね、そこでこれは合楽の信心だと私がいつも申しておりますように、ね、「梅の香りを桜にもたせ、しだれ柳に咲かせたい」という、この三見一体というか、ね、その3つの花の性情というものがです、自分の心の中にこう全部頂けていくという信心。そこで自分には桜の花がかけておる、自分には梅の花がかけておる、自分には素直さの柳の信心がかかえておると、自分で気が付いたら、そのところに努力をするということ。ね、

 私はこう自分の信心を、こう手本のようにいうてから、あ~相済みませんけれどもね、どうも、私の信心にはね、私の信心の性格というのは、やっぱり桜の花の信心が一番、私の性情からいうと、桜の花の信心なのである。ところが、ところがその時期というか、問題というか、そういう時期的にも恵まれておったと、終戦、そして引き上げと、ね、そういうような自分に、え~辛抱せざるおえない梅の花の信心が、あの時分に、まぁいうなら、( ? )とまでは行かなかったにしても、育っておったということである。ね、それから、まぁこれは生まれつきといや~生まれつきですね、その~( ? )なし馬鹿んごと素直んとこがあるということです。素直ちゆうことじゃないけど、嫌て言きらんていうような弱い心なんです、いわば。だからしようことなしに、ハイと言わなきゃでけないということ。ね、

 もう子供ん時に、隣の親父が、そこに胸に手を置いて寝れというと、ちゃんと寝よった。それでお客さんが見よると、この子は私の言うことならどげなんこってん聞くちゆちから、寝せる。もういつまで経ったっちゃ~起きれといわん、起きれといわれなければ、ちゃんと口を詰むんでこうやって寝とる。それを面白がってから、もうそのまま眠ってしまうようなことがあった。まぁ勿論、皆さん達に、ちゃんとこのお菓子や(?)もらうわけですよね。もうそげなんこつ、誰がそげなこつするかちゆうごた風なこと、もう子供時からです、もうそういうことを言われても嫌ち言われん。ババがきてから、もうあんたばっかりは、ほん~な、ごげな( ? )してからちゆうてから、おごられたつ覚えとります。ぐらいにね、嫌ていいきらんとです。まぁそれをま~、それをいよいよ信心で浄化されてまいりましたら、それが素直ということになったのかもしれません。神様どういう無理を、または難題と思われるようなことを仰っても、それをやっぱ、ハイと受けてきたという事実があるからです。ね、

 だから、そういうものは持ち合しておったとしです、ね、梅の花の信心に一番かけておった、いうならぶしょう者の私がです、辛抱することの、いわば喜びというようなものを身につけてきた。してみると、合楽の信心はなるほど、(  ?  )見せて頂いても、それこそ真実生をかう程しにですね、これが月次祭のお供えですかというて、たまがられるほどしの、おかげを頂いておる。それこそ桜の花が一遍に咲いたような感じである。ね、それは私のやはり、桜の花の信心というかね、場合には、潔よう取り組めたというかね、まぁ潔いという信心が、あったからだとこう思う。

 それにやはり、んなら素直さ、それにまたは信心辛抱、辛抱強さというようなものが、少しづつ身についてきて、ね、梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたいといったような、まぁ一つの理想教と信心の、に向かって進ませて頂いておるようなものを、合楽の信心の中から私は感じます。お互いが、素直を看板、まぁいうならば、潔さを看板。まぁそれぞれの看板というて、その特徴というかね、どれに一番近いかという、これなら、これはけいこせんでもいいというならば、いうなら、欠けておるものを自分のものにしていく信心。

 今日の御理解には、少しえ~(?)が違うかも知れません。ここでは、本当に桜の信心より、いわゆる、辛抱強い信心をせよということを教えておられるのかも知れませんけれども、まぁ桜とか梅とかという、花の性情といったようなものを感じて、または、昨日菊栄会の方たちが頂いた、御理解などを頂いて、ね、なんともなしに、何かがそこに欠けておるもの、それはこれだけは、もう文男先生には勝たん、これだけは正喜先生の右にでるものはおらんというようなものを持っておりながらです、欠けておるそれで、私は何十年これから信心が続いてもです、ね、大した事がないのじゃなかろうかというふうに、(?)するわけであります。ね、

 だから、これは菊栄会の方たちの場合だけじゃありません、お互いの信心の上にもです、そういう足ろうた信心を、一つそれぞれに身につけて参りたいとおもいます。
あらゆる場合に、ね、え~桜の性情がでる、または、ここは梅の花じゃなからなきゃならんという時には、梅の花の信心がでる、ここはいっちょ馬鹿ほどに素直にいかなきゃならんとこ、そういうものがね、私は足ろうていく信心に、いわゆる真の信心というか、真の徳というものが、受けられるように思うのです。

 一方的ではない、片寄らない、私共はどこまでも一つ足ろうたおかげを頂きたい。昨日、永田先生がお参りしてみえて、あちらで、合楽の先生はもう大きなことばっかり言うちゆうように定評があるち。ね、( ? )とか言わずに、いっぺん行って見なさいちゆってから、申しましたていう、ね、そりゃそうでしょうね、私がこの頃いよることは、やっぱみんな、あの色んな印刷物が出ておりますから、見てからでしょう、ね、もう道のこととか、教会のことなんか言わんと、もう私の信心は世界の市場に出すなんて、大きなことばっかり言いよるから、そういう意味じゃろうとこう思うんですけれどもね、

 ところが、ここへ来て思うことはね、これは永田先生が言われるのです。もう全てのおかげが足ろうていきよる。ちょうど、まるよしょうがブラスバンドの練習があってました。だから、はぁまぁあちらも随分、けいこがでけていっとりますねと言われるから、いえ、この頃私は、雅楽の方も、しょう、しちりき、てき、全部揃うてから、あ~おけいこがあよります、申しましたらね、とにかく何というても、もう全てがずーとおかげの実になって現れていきよる、いや足ろうとると、おかげが。んなら、お広前のどこ隅々を見てもです、ここはきれいだけれども、ここんところは(?)ちゆうところがないという意味なんです。ね、

 だからその、足ろうていっておるという、そのおかげを頂く為に、ね、梅だけでもいかん、桜だけでもいかん、柳だけでもいかん、その全てがね、私の信心の内容として頂けれる、欠けておるものがあんなら、特にそこのところに、力を入れて自分のものにしていくという、精進が必要じゃないかという風に思うのですよね。どうぞ。